思想荷重

押しつぶされし日々。

ともだちと九月の三連休


金曜日と日曜日に、

それぞれ別の友達二人ずつと久しぶりに会って

それぞれ三時間ずつ笑ったり相槌を打ったり

女同士でげらげらと過ごした。

 

アウトプットを口から行うことに日頃慣れていないから

久しぶりに友達に会っても

学生時代のように言葉が思うように出てこない。

もちろん、そこには大人になってからの

ちょっとした遠慮だったり、変なプライドだったりが

見え隠れしている変な距離感があって、

『友だち』っていいなと思うと同時に

『友だち』ってなんだったっけかな?

そんな風に思ってしまう自分も正直。

 

その場はとても楽しいし、もちろん相手は素敵な人ばかりで

また会いたいな!そんな風に思うけど、

帰ってきてからちょっとした不安が圧してくるのは

学生時代にはなかった憂鬱な点。

相手の気を悪くすることを言ってないかな?とか

あれは言い過ぎたかなとか、

話過ぎたかな?とか。そんなようなこと。

多分わたしが下手くそなんだと思う。

人との関係を築くのが。その関係を保守することも。

 

若い頃はコミュニケーション能力が

そんなに低いなんて思ってもみなかったけど

たぶんそれはただ自惚れていただけなんだろうと

今になって思う。

人間関係って本当に鏡みたいなところがあるから

自分が遠慮したり距離をとったりすると

相手にもそれが伝わってしまうよね、

だからそんなことは仲良くしたい相手に無用なことなのに

その癖みたなものができてしまって

多分もう二度と丸裸の自分の状態で誰かに接することは

ないのだろうなぁと思う。

 

こんな状態だからこそ文章という、逃げ場ではないけど

ひとりよがりなアウトプットを許容してくれる手段に

没頭してしまうというのは大いにある。

 

今、物語を書いていて、それがもうすぐ完成する。

もの凄いエゴイストな反面と

ものすごく臆病な反面を

併せ持っている変な自分を存分に発揮したい。

人には語れないけど、書けることを存分に。

 

 

 

 

 

 

 

 

【読書記録】『イヤシノウタ』吉本ばなな

吉本ばなな『イヤシノウタ』を読了した。

とても好きな作家さんだけれど、

「すてき」「あたたかい」「やさしい」

とにかくどの文章にも、

ほんわりと温かなワードがあって、

優しい世界に包まれているので

捻くれもののわたしは正直、途中胸やけしそうだった。

あまりにもたくさんのポジティブはわたしには重たい。

いつもきれいに完結する話もしんどい。

ドリカムの音楽にも似たところを感じる。

90年代の恋愛ドラマにも。

日本がどんどん夢を見ていた時代。

作者はきっと温かくて聡明なご家族に囲まれて

物語を作ってこられたんだろうな、と正直に思った。

それはもちろんとても羨ましくて、

わたしもそうだったらよかったのに、と素直に思う。

東京の都会に生まれて、温かなご両親と

溢れんばかりの才能を発揮しながら成長していける環境なんて

最高すぎるじゃない!羨ましいよ!

きっとその繊細さでたくさんのきれいを見つけることができて

そうして自分の才能を心から信じれる強さもある。

最強じゃない!時代にすら味方されている。

僻みじゃないよ、本当に心からそう思う。

特に終盤のお父様との対談は、とても素敵だった。

わたしは自分の父親と、

あんなに知的で温かい会話を交わしたことがない。

これからもすることはないと思う。

どんなにお互いが心を開いたとしても、

わたしたち親子では出てこない言葉しかなかった。

本当に素敵だった。

 

わたしが過度なポジティブを嫌うようになったのは

大人になってからだ。

中学生の頃は吉本ばななの文章にとても心惹かれてた。

「こんな大人の女性になりたい」そう思ったからだろうか。

女性の感受性を持って恋愛や他者との関係の一番いい、

一番美しい切り取り方をする人だなと思っていた。

そして何か艶やかさのある人。

女性として、人としてこの人はモテるな、と思った。

そんな風に誰かに自分を見つめられると、

そんな風に誰かに自分を解釈されると

誰だってくすぐったく嬉しいし、自分が特別になる。

自分を特別にしてくれる人を、人は特別にしたいもの。

そして現にめちゃくちゃにモテるだろう。

 

今わたしが感じる彼女の文章はもちろん魅力的だけれど

先にも述べた通り、胸やけ感が否めない。

それは別に彼女の文章のせいではなくて

自分の感受性のポイントが

どういうわけか変化してしまったからで

夢見るだけの状態じゃいられなくなったという

悲しい現実ももちろんそこにはある。

物事をあまりにも相対的に考えてしまうようになった

大人としての経験値も加わって、

思考がもう一方通行ではなくなってしまった。

どちらかというと、リスクの側面を考慮しないといけない。

人生に短い間だけある「素敵」という理由だけで、

躊躇いなくまっすぐに手を伸ばせる時代が終わってしまった。

こうして書き連ねていくと、

なんだか卑屈になっているように思えるけど全然そうじゃないよ、

あくまで現実。ここに感情はいらなくて、

おたまじゃくしがカエルになる。これぐらいの現実。

そう、人として人でありながらの変態。

 

カエルになったわたしが求めるのは、

もっぱら現実。

完璧なハッピーエンドなんてない。

打ちのめされて落ちるのもまた不幸ではなく

その先の出会いとか経験に繋がっているから

腐らないで生きていてね、とか。

そんな助言めいたものもいらなくて、

ただ打ちのめされて不幸な人。

それでいい。

でもだれもそんなの読みたくないのかな。

それでもわたしはそれでいい。

その現実を迎えて、それでも美しさのちょっとだけ

垣間見えるような。

そこは三島由紀夫の「憂国」は素晴らしかった。

あんな真理の書き方はほかにない。

 

割とこう生温い相対主義の現代の世の中で、

わたしはきっと手厳しく真理を追究していく

絶対主義的な危うさと頼もしさのある

そんな文学と思想に惹かれている。

 

美しいものは、正しいのではないか、

正しくなくても美しいのなら

それは何かの辻褄の合う片方なのではないか。

その片方は醜いのか?

否、きっともう片方も相応に美しい。

人の惹かれる美しさの中に罪があるなら

人そのものが罪なのではないか。

美しさとは聡明で、純粋で、相愛。

こうして浮かんでは消えていく、

思想の渦と心理の端っこに今日も翻弄されて

わたしはおたまじゃくしだった頃の自分を

また今日も少しずつ忘れていく。

 

 

 

 

 

 

 

言葉と感情とオーディオブックと九月十二日


19:30 秋雨の続くここ数日

やっと晴れ間が見えたので散歩に出ると

外はすっかり秋だった。

 

昨日ブログにも書いたオーディオブックを聞いているけど

思いのほか読みたい本との相性が良くないことに気付く。

そうだ!と思い立ち、

伊坂幸太郎で検索してみる。

アイネクライネナハトムジーク

Eine Kleine Nacht Musik.

なんでドイツ語なんだろう。

アイネクライネの響きがいいのかな、

そんなこと思いながら聞き始める。

(後記:モーッアルトの曲だったのね!)

うん、やっぱりとても相性がいい。

 

以前、『チルドレン』を読んで『サブマリン』と『砂漠』を一気に読み切った。

昼休みがとても短く感じて、わくわくして読んだ。

とても面白かったけど、

本を読んでいるのにどこか映画を観てる感覚と同じで、

わたしの望む読書体験とはちょっと違った。

たぶんそれは、言葉が物語を作っているのじゃなくて

物語に言葉を当てはめているからだと思った。

家の作り方と同じように、設計図があって

それぞれのパーツを組み立てていく感じ。

このタイプの本とオーディオブックはとても相性がいい。

 

わたしはむちゃくちゃなパーツが

どこかしらから生まれてきて

しかもそれがどんどんと闇から浮かんだと思えば

光から降ってきたり、

そんな混沌からひょこっと顔を出すような文章が

どうしてかわからないけれどひとつの人間で

ひとつの人生で、ひとつの物語を生む

そんな切り取り方の言葉の紡ぎ方が好きだ。

そこにこそ哲学があると思っている。

めちゃくちゃに偉そうな言い分だけれど。

 

それから、日本語とオーディオブックの

決定的な相性の悪さも感じた。

個人的意見かもしれないけど、

日本語には字面の美しさもあって、

漢字と平仮名とが並んで、その奥に景色が見える

それが思いのほかとても大事で

自分がそうして本を読んでいたのだなと

今更ながらに自覚した。

例えばわたしはこの一文

青桐の葉陰に柘榴(ざくろ)の花が燈火(ともしび)のように咲いていた。

川端康成『合掌』

この一文を読むと「青桐」の時点で一本の立派な木が浮かぶ。

「柘榴」は赤く青桐の葉とのコントラストが「燈火」のように浮かぶ。

こんなにきれいな言語があるだろうか、

色も影も、光も風さえも目の前に広がる。

あおぎり、ともしび。

「燈火のように咲く」心を打たれる。

自分の声が脳みそを駆け巡るとき、

それはとても美しい音となって体中を駆ける。

そしてこれは、文字を視覚で捉えて、

「作者が思いを込めて綴った字面にしか宿らないもの」

それを感じることでしか得られない景色というものがある。

そしてこれは聴覚が起点では難しくて

視覚→自分の聞こえざる声が聴かせる音(聴覚)

この順番でしか得られないものだと思う。

 

なのでこのような本や、

このような美しさを持って書く作家の本は

オーディオブックには向かない。

それこそじっと横になって

全集中して聞くとめちゃくちゃに良い体験になるかも。

それはまだ試せていないので、今晩にでもやってみたい。

でもそうして全集中している時間があるなら、

普通に本を読みたいよ。この矛盾。

 

なので今は外国語の本を聞いている。

アルファベッドの単語にも

きっと先ほどの日本語の字面的感覚を持つ人はいるのだろうけど

母国語ほどわたしには繊細に感じ取ることが出来ないので、

鈍感なまま単純に言語学習目的も兼ねて新しい経験をしている。

 

言葉と物語ってなんだろうと考える。

手段としての言葉と、目的としての言葉と。

全く違う役割を与えると、言葉ですらこのように様変わりする。

お金みたいなもの?

お金は無から自身を生み出せないけれど、

言葉は無から無限を生む。

これは大きな違いだ。

人間という生物を「言葉を操る生きもの」と定義した哲学者もいて、

=感情を操る生きもの。としても解釈できるのかも知れない。

自分と、そして他者の感情を繋ぐもの。

 

わたしは日本語が母国語であることにかなりの幸福を感じる

日本語がとても美しいからだ。

ドイツ人の友人の前で日本語を話していると、

日本語ってなんでそんなにかわいいの?という。

お気に入りの日本語は「みみたぶ」であった。

確かに、ドイツ語のような

濁音まみれで喉でかき鳴らす音まみれの言語を母国語に持つ人には

かわいらしく聞こえるのだろう。

日本語にはほとんど澱んだところがない。

こうして感情が言葉で埋め尽くされて

言葉によって作られると仮定するなら

日本にある感情はある程度澄んだものなんじゃないかな、

そんな風に自惚れてもみる。

そうであったらいいな、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自由の眩暈と九月十一日


読みたい本がたくさんあるのに時間が足りない。

主な読書時間は昼休みの45分間で、

帰宅してからはなかなか時間が取れない。

どうしたものかと思い立ち、

今日は仕事が休みなので

いろいろと自由時間の設定を見直すことにした。

 

まず、帰宅してから目的もなく

だらだらとスマホを触っている時間が多すぎる。

これは本当に良くないと自覚していて

早急にどうにかしたい。

睡眠時間の少ないのもこのせい。

自分の意志が弱すぎて

物理的に遠くにやってしまうしか方法はないと思っているから

帰宅してすぐにリビングの隅の充電コードに繋いでしまおうと決めた。

 

次に、こちらもだらだらと契約していた

映像配信のサブスクを解約。

音楽サブスクは残した。

こうしてブログを書いているときにも

音楽は欠かせないし、

昼休みの読書の際にも

他の音を消してくれるBGMを流している。

音楽は自分にとってすごく大切。

 

それから、Podcastにお気に入りのチャンネルを設定した。

以前からドイツ語のラジオチャンネルのアプリを入れて

ラジオドラマを聞いたりしていたのだけど

あまり種類が豊富でないのでPodcastを見てみると

古典ドラマから犯罪ものからミステリーまでたくさんあった。

(過去にドイツに5年住んでいて、ドイツ語はしゃべれる)

ドイツ語を忘れないために、結構聞いてる。

 

そして最後に、

audibleというアプリを入れた。

映像配信サブスクを解約したので

こちらのサブスクに登録しようと思っている。

通勤往復40分の車中で聞くと

かなり有意義なのでは!と、いい発見をした気分で

(今更)鼻息荒くなった。

出勤時は余裕を持って家を出るので、

駐車場に着いて車を降りるまでに10分ほどの余裕がある。

だから切りのいいところまではちゃんと聞けそう。

Podcastと被る部分もあるけど、

こちらは読みたい小説が圧倒的にたくさんあって

通勤、家事の間、あとウォーキングのときとか

ものすごく重宝しそう!

アマゾンだけあって、

外国語の小説もたくさんあった!

 

自由時間が充実すると、とても気分がいい!

息苦しくならない程度に意味のある時間を重ねたい。

しんどくなったら寝る。これに尽きる。

なによりデジタルデトックスを目標にしたのに

結局スマホの流す音楽や声に頼ることになるとは

なかなかの皮肉。

もしかして意味のない時間を増やすことの方が

意味のあることなのでは?という自問自答も生まれる。

 

昨日やった意味のない時間の過ごし方を

ひとつあげて終わりにする。

インスタグラムで『Street food』と検索して

海外の、主に東南アジアのストリートフードが

作られては誰かの手に渡され、

また次の動画で、違う料理が

作られては誰かの手に渡されるのを

一時間ぐらい眺めていた。

パンを焼いたり、

薄く伸ばした生地を焼いて肉や野菜を巻いたり、

色とりどりのソースたちや

チーズがやけに大量消費されていく様を

ぼーっと眺めているとき、

わたしはゆっくりと癒される。

ベッドに横たわって薄ら明るいスマホの灯りに顔を照らされ

笑うでもなく泣くでもなく、無な状態の

そんなわたしの姿をご先祖様が見たら

さぞ呆れてしまうだろうなと思う。

 

だからなんとかして、

少しでも誰に見られても恥ずかしくないような

時間の使い方ができるといいのだけど

惰性的で飽き性なわたしは

何かに無理やり動かされている方が都合がいいように思う。

自由とはなかなかに難しい。

キルケゴールが言った『不安とは自由の眩暈』だと。

 

 

 

 

 

 

 

 

某事務所のお話と日本の闇と九月九日


昨今の某芸能事務所の問題について。

 

これは芸能界全体、

そして日本全体に蔓延った昭和イズムの

どうしようもない汚点。

主語がでかすぎると言われそうだけど

昭和の時代からずっと、日本が壊れ続けているのを

どれだけの人がちゃんと認識しているだろう。

 

諸悪の根源はどうしても第二次世界大戦となる。

軍事主義が全てを変えた。

敗戦国になった、なることは決まっていた戦いに

挑んだ時点でもう日本は半分沈んでいる。

悲観でない、事実として。

 

それは何より、教育を変えたから!

軍国主義の日本で、

今でいうハラスメントしかなかったような教育現場。

(もちろん全部の教育現場がそうであったわけではない)

自分のやりたいこと、将来の夢より先に

国の行く末の健やかであることを祈らなければならない。

 

大人たちは子どもではなく、

国や社会、そして日々の生活に精一杯で

家庭への愛を顧みることができなかった時代。

父親や男兄弟は戦地へ行き、

周りにも死の話題はありふれている。

 

これが、たった三世代ほど前の出来事。

ここで幼少期から青年期を経た世代が

どらだけの心の傷を受けたかは計り知れない。

日本中の若者の傷だ。

この時代をどう切り取れば

「まとも」であった瞬間が見られるか。

せいぜい人一人が踏ん張っても

あまりにも大きすぎる時代の波にのまれる。

この歪みは先にも言ったように

「敗戦」で決定的に修正手段を失った。

 

終戦後焼け野原になった東京が

「都市計画」を打ち立てたのを知っているか?

荒野となった東京を世界都市に発展させるべく

何人もが立ち上がった。それは素晴らしい計画で

実現すれば今のような混沌とした都市でなく

世界最先端の都市として生まれ変わるはずだった。

それを良しとしなかったのが米国だ。

『「都市計画」などいらない、「復興」で十分だ。』

これが米国の意見で、広がった闇市も土地の略奪も

全て放置され恒久性のある計画より、

小手先の処置を優先させた。

これが日本中の全てで同様に。

目先の計画性しか無い復興により

日本の街は何世代にも渡って不安定なままだ。

 

そして今じゃ宗教というカテゴリーの話に

アレルギー反応を示す人も多数いるが、

日本は当時、

世界一の宗教国家だったと言っても過言ではない。

天皇は神そのものだったのだから。

みんな神を信じて、信じる者がいるという世界に生きて

それが日々の道しるべだった。

(わたし個人的には現在の天皇制についても、

天皇の戦争責任についても思うところはたくさんあるが

これ以上は言及しない。)

 

信じる者がいるということは、

倫理観をそのものに委ねられるという面で

とても有効的だと思う。

信じる者がYESと言えばYESだし、

NoだとNoなのだから、

自分で物事の決断をしなくていい。

『決断』というのは

実はものすごくストレスのかかることで

人はどうにか決断を避けたがる傾向にある。

そして神がYESと言った戦争に

突っ込んでいった日本。

Noと突き上げた声は見事にかき消されてしまった。

それほどに大きな力を持っていた神を

米国はまんまと利用した。

戦後の日本の民主主義化と資本主義への傾倒に

大きな一役をかってもらうために。

 

上記二点だけでも、

わかっていただけるだろうか

戦後主に米国に

どれほどに日本の根幹を捻じ曲げられたか。

そして当時の若者の心の根が泣いていたか。

 

この頃になって「親ガチャ」という言葉を聞くが、

大体そういう場合は親だけでなく何世代にも渡る

悲劇の積み重ねであったりする。

それは経済的に、倫理的に、道徳的に。

虐げられてきたものの記憶と感情との蓄積。

フランスであれば革命が起きているだろう。

民衆の歌が聞こえてきそうだ。

 

もちろん幸せに、何不自由なく

愛し愛されて育った人もいるだろう。

それでも腐った世界は確かに存在して、

しかも堂々と易々とこちらに近づいてくる。

 

これが戦後に限った話ではなく、

古の時代からあった人間という生きものとしての

悪しき習慣だとしても

これをきちんと正すことのできる

正義さえ生きていればいいのにと思う。

 

わたしは米国が日本を壊したとは思っていないし、

どこも敵や味方という見方はしていない。

右でも左でもない。

過去を振り返って感想を言うなんて

とても愚かで安っぽいことをしているに過ぎないけど、

でもそう、どこでこれを修正できたか?ということを

今日はずっと考えていた。

 

どこでどうしていれば、

日本がこんなに卑怯な者たちの手に

落ちたままにならないで、

見えているものだけを信じてもいいような

そんな世の中でいられただろう。

 

ここまで考えて、

いや待てよ、

日本だけじゃない、

どこの国にも同じような腐敗臭はある。

そう気が付いて、

再び底知れない、人間の愚かさと恐ろしさを感じた。

 

権力とは本当にどうしようもない。

そしてそういうものを身に纏っている人間は

自分で気が付かないでいるだろうけど、

とても気味が悪い空気を纏っている。

これにのまれるのか、それとも取り込まれたいのか

わざと近づいていく人間がいるのもまた事実。

被害を訴えている方々は

それを気持ち悪いと捉えたからであって、

至極真っ当だろう。

テレビで加害者が持ち上げられたり

面白おかしく語られたりしていた場面を

どんな気持ちで見ていただろうと思う。

そしてそれを気持ち悪いと捉えずに

受け入れて名声を得ている当時の友人を

軽蔑する気持ちもきっとある。

(個人的意見。わたしがその立場ならきっとある。

冗談めかして名前を言ったりしているのを聞くと

多分吐きそうになる。自分がおかしいのかと錯覚する。

我慢出来ていたら違うのか?と自分を責める。

そんな理不尽なループに陥るはず。)

 

ここまで書いて、もうわけがわからない。

この闇との戦い方が。

日本中を、世界中を今なお覆っているこの闇。

歪さならいくらでもある。

この理不尽な世界で。

 

ただどうにかして、変えられないものか。

人間が人間でいるうちに。

人間が人間に失望してしまう前に。

そんなことをぐるぐると考えていた今日の日。

 

珍しく時事的なお話でした。

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三毛猫とわたしと九月六日


このところずっと読書の話題ばかりなので、

今日は少し違うお話を。

 

うちには猫がいる。

三毛猫のミナ。

 

去年のある春の日に、

当時小学三年生の次男の後をついて、

家の前までやってきた。

 

仕事帰りの電話で夫から

「家の前に猫がいる!」と聞いていたけど

すぐにいなくなるだろうと思っていた。

その電話の一時間ほど後に帰宅すると、

まだいた。

年齢不詳の三毛猫。薄汚れて痩せていた。

 

耳がカットされていたので、

避妊済みのメス猫というのは

一目でわかったけれど、

それ以上の情けをかけることは

いけないと思って

どこかで幸せになってくれることを

静かに祈る他なかった。

 

翌朝の出勤時には姿が見えなかったので、

縄張りにでも帰ったのだろうと思っていたら

夕方にはまた家の前に戻ってきた。

 

餌をあげるでも撫でてやれるでもないのに

ミャーと鳴く猫を見るのはとても心が痛い。

うちには犬もいるし、

どうしてやることもできない。

この辺りは住宅地で、

猫の糞に困っている近隣住民の声も実際に聞いていたし

尚更無責任なことはできない。

 

それでも翌日、そしてまたその翌日と

我が家の前でリラックスしている猫。

ある日などは近所の中学生の女の子の膝に

丸まって寝ていた。

聞くとどうやら

人懐こいで有名な地域猫らしい。

しかもミナという名前まである。

三毛猫だから、ミナ。

なんてことだ。

 

そうしているうちに夏が訪れた。

連日の猛暑。

相変わらず家の前で横たわっている。

厳密には我が家の車の下にいる。

こんなに暑いのに、ガリガリで。

水は飲めているのか?

いつも夜は居なくなるけど、

ご飯は満足に食べられているのか?

さすがに心配になって裏口から家にいれた。

裏口を開けて「ミナ」と呼ぶと

ミャーと鳴いて、前からそうしてましたよ、

という感じで入ってきた。

まるで「ただいま!」のミャーだった。

悪い心を持った人もいるというのに!

なんだこの猫は!もっと人を疑え!

もうこの時点でうちの猫になることは

確定していた。

 

そこからずっと我が家の猫様として

存在感を増し続けている。

丸々としたお姿を惜しみなく披露して

意味不明なしっぽの擦り付けで翻弄してくる。

我が家の壁紙を剥がし、

その横で液体のように横になっている。

気分により声色を変えて

家の中をストーカーしてきたり

午前五時に体の上に飛び乗ってきて

目の前でミヤッと短く連呼してみたり

わけのわからないタイミングで

こちらを凝視してきたかと思えば

名前を呼ぶと無視を決め込んで

そそくさとどこかへ行く。

なんてやつだ。

 

正直に言おう!

わたしは猫は好きだが断然犬派だ!

そしてもし、猫を飼うのだとしても三毛猫ではなく

茶トラがいい!オスの人懐こくて大きな茶トラが!

三毛猫ではない!決して!

 

なのに!

 

この三毛猫様に翻弄されている

自分を否定できない!

 

嬉々として

チュールなぞを差し上げている自分を俯瞰で見ると

おかしすぎて笑えてくるときがある。

午前五時に「はいはい」と返事をしながら

餌をあげてる自分も

壁紙の剥がれた壁を撫でながら、

「派手にやりましたねぇ」などと

叱るでもなく呟いている自分も、おかしい。

 

そして常々思う。

こやつ、いつから気が付いていたのだろう。

この家族、チョロいぞ、と。

ここに居座ってたら

いつかは家に入れてくれるはずだぞ、と。

きっと息子から

何かしら漏れ出していたのだろう。

鋭いなぁ、猫。敵わない。

 

先住犬とは幸い仲良くやっていて、

犬の性格がもともと穏やかなのも功を奏して

犬と猫のなんとも幸せな構図の広がるリビングを見るのは

今ではわたしの大事な幸福の瞬間のひとつになっている。

 

猫も猫で絶対に人や犬に対して

爪を出さないので

その辺の最低限弁えていますよ、

という姿勢も意地らしく愛らしい。

まさかこれも計算…?

だとしたら恐ろしいけど。

 

名前をミナから改名しようかなと

何度も思ったけど

夏目漱石の家の猫は

「名前はまだない」状態で居続けたらしい

そんな話を聞いて、

「うちでの名前はまだない」状態でいいか、

そんな変な理屈で名前はつけないでいる。

 

今は靴下を入れている衣装ケースに入って眠るのがお気に入り。

入るときにスペースがないと

靴下を床に落とすのよね、

それを無言で片付けるのが

わたしの毎朝のルーティン。

いつまでも元気で、

末永くお世話を続けさせてもらいたい。

 

そうそう、

うちの前には迷い犬まで迷い込んできた。

チラシで見てた、柴犬の迷い子。

それも土曜日の早朝、

旅行に出発するその日の朝に。

いろんなところに電話して

すったもんだしたそのお話はまた後日。

 

それでは、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉本ばななと九月五日


今日は吉本ばなな「イヤシノウタ」を読んだ。

 

読みかけのままずっと本棚にあって、

今日たまたま昼休みに読もうと思って手に取った。

 

わたしは吉本ばななが好きだ!

わたしの読書好きの原点は吉本ばななTSUGUMI

それまでも本を読むことはあったけど、

作者で本を探すようになったのは吉本ばななが初めてだった。

 

現代文の模試の長い長い設問に使われていた一場面を

気になって気になって後から本を買って読む。

みたいなことがその当時頻繁にあって、

今思うと模試を作っていた側の意図もセンスも

なかなかいいなと思うのだけど、

それが吉本ばななの「TSUGUMI」だった。

夏目漱石も現代文の模試が入口だった。

辻仁成も現代文の教科書にあった「ミレニアム」がはじめて。

あれ?「ピアニッシモ」だっけ。

私が高校生活で唯一生きて勉強をしていたのが現代文の時間だった。

模試もちゃんと受けたのは現文だけ。褒められたものじゃない。

でもこの現文の教科書たちや文章に出会えただけで

高校に通った意味があったように思う。

学校の図書館にはいい本がたくさんあったし、

なんだ、なんて無意味な時間だったと思ってたことも

この年になってこうして後から意味を見出すことが多くなった。

無理やりに自分の人生を肯定し始めたのだとしても

それはそれで自分なりの人生の救済だ。

 

吉本ばななはずっと好き。

新刊が出たら買っちゃう唯一の作家さんかも。

彼女の文章を読んでいると「人間」がとても素敵に思える。

そうやって人のことを観察できる吉本さんも

とても素敵な人なんだろうと思う。

そして今回の「イヤシノウタ」ではご両親を失ったり

叔母さんを亡くしたりという人とのお別れに関連するお話が多い。

故人を思い出したり、温かいエピソードや夢に出てきたお話や

お友達との話もとてもいい。

そして何より言葉に、文章に音があるのが好きだ。

音と一緒に温度も感じる。

 

言葉ってとても面白い。

吉本ばなな三島由紀夫とは全然違う。

宮沢賢治村上春樹も全然違う。

それでも全ては日本語で、そして私はそのひとつひとつを

理解して感じて心が震える!

 

私にもあるだろうか、自分だけの

色のある文章を書くための言葉の泉みたいなもの。

あったらいいな、と思う。

そしたらもっともっと気持ちを大きくできて

素敵なことがもっともっと素敵になるのになと思う。