思想荷重

押しつぶされし日々。

秋のはじまりと九月四日

お久しぶりです。青桐です。

 

とうとう9月になり、慌ただしく夏休みの終了と共に

秋の訪れを感じる今日この頃、いかがお過ごしですか?

 

ここ3日程、改めて小説を書いてみようと思い立ち、

書いてみました。ショートショートを。

結果散々です。すごくカッコ悪い文章になる。

言いたいことが多すぎるし、無駄も多いし

まとまりがない。構成力がないんだろう。

そして何より

頭に浮かぶ情景を描写する力がまだまだない!

まず辞書から読むべきだと痛感しました。

早急に辞書を手に入れなければ!

 

それでも書くこと自体は

自己満足の極みで細々とは続けていけそう。

いつか三島由紀夫賞を取りたい。

自分の説明書に、三島由紀夫の名前を連ねてみたい。

とか言ったら張り倒されそう。今のままじゃ。

だからこれまで以上に本を読んで、書いて、

そして昼間は全く関係のない仕事に精を出す。

なかなか面白くなってきた。

 

転職活動は、今のところ順調…なのかな、

来週面接が決まった。次回も派遣だけれど。

ステップアップを目論み、しかも希望時給高めに伝えてみたら

その通りのピッタリの求人を紹介してくれた。

前紹介してくれた案件は通勤距離長すぎてお断りしたから、

あぁ、もうこんなやつに紹介してくれんよなぁ、

と思って半ば諦めてたら降りてきた!

それでも正直少し不安。

自分で決めたことだから仕方ないけど!

それでもまた人間関係、仕事内容、全部はじめから!

と思ったら少しだけ不安で少しだけわくわくする!

このわくわくだけに標準合わせて前向きにいこう!

いやいや、まだ面接も終わってないけど。

 

こんな調子で、わたしは元気です。

相変わらず調子に乗ってます。

そちらはお変わりありませんか?

 

P.S サムネイルの画像を秋らしくしてみました。

 

 

【読書記録】辛口『マチネの終わりに』平野啓一郎 


昨晩ここに日記を書いて

そのあと2時ごろまで本を読んでた。

 

平野啓一郎『マチネの終わりに』

 

時間を返してほしい。

途中で胸糞過ぎて読むのやめた。

こんなネガティブを綴るのはやめよう

そんなことも思ったけど

ちゃんと書こう。

 

以下ネタバレ要素あるので

読んでない人はご注意を!

 

平野啓一郎氏は悪くない。

わたしがこの本を、

このお話のあの場面以降が

我慢ならんというだけの話。

 

途中までとても楽しく読んでいたし

それこそ深夜まで。

わくわくして読んでいたよ、

だからこそ胸糞度合も大きい。

 

 

 

 

まず、これが恋愛小説だと知らなかった!

人の恋愛のあれこれに、

なかなか感情移入が難しいお年頃!

 

それでも読み始めると大人の恋愛の話で

しかもわたしと年が近い。

主人公が芸術家肌で感性が豊かで

チャーミングでとても好感を持って

なんなら応援していた。

相手の女性もそう。

彼らの人生丸ごと。

恋愛というメインテーマと

それを包括する彼らの人生丸ごと。

頑張れーって応援してた。

 

出会い、告白、再会。

そしてやっと結ばれるという場面。

ふたりともそれぞれに

人生でとても難しい時間を過ごしていたし

これからどう切磋琢磨して

ふたりで美しい感情のやりとりを通じて

どう人生を切り開いていくんだろう?

 

これから手を取り合って乗り越えていくのだろう。

どんな紆余曲折が待っているのか。

どんな変化が訪れるだろう。

そんな気持ちで読み進めていた。

どことなく自分の中年クライシスに重ねていた部分も大いにあった。

 

結婚の口約束までしていた彼ら。

お互いの人生を半分ずつ受け渡していた。

 

なのに!!!!!

 

あの瞬間ですべてが薄っぺらくなってしまった。

卑怯極まりない!人として最低の行為。

ほぼ殺人よ、本当最低。

めちゃくちゃ腹が立った。

何てものを見せられたのか!

 

それにふたりを心底見損なった。

そうして大人ぶって、すべてを傷つけて

結婚?

ひとつのメールでなかったことになる結婚話?

違う人と結ばれる?

そうなるように選んだのはこのふたりで

あの薄っぺらい女はきっかけだっただけで

原因ではない。

それまでの全てが嘘になる。

これまで読んだ全てが。

 

自分の人生のもう半分を賭けてみる勇気が

結局のところ持てなかったということだろう。

わかるよ、大人になると背負うものが多くて

それが無自覚のものもあるし

ある程度のプライドというのも

自分を保つために必要だもの。

でも向き合いもしないで、

メールでさようならとは浅い。

浅すぎるでしょ、いくら小説でも。

 

あぁ、本当に最悪の読書体験だった。

記憶に残るという意味では完全に残る。

これだけの打撃を与えたという意味で。

 

大人同士の恋愛というのは

一筋縄ではいかない。

これがテーマだったのでしょうか。

わたしはそれでも

人生の波を一緒に乗り越えていくのが

愛ではないのか、命を捧げ合いながら。

そんな風に思っているので

一度逃げ出したふたりが見つめ合った先に

何かが起こるとはもう思わない。

自分たちの浅い決断を淡い運命なんて

言葉や表現で包んでみても無理があるでしょう。

 

でもわからない、わからない。

わたしが60歳ぐらいになったら

また違う考えになっているのかも。

とりあえず今のわたしにとっては

到底理解できない、

恋愛ですらない無責任な夢物語だったわ。

 

恋愛小説はちょっとこりごり。

現代が舞台のお話も当分お休み。

 

あぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

チョロいわたしと八月二十九日


大阪へ帰省していた

夫と子どもたちが帰宅して

慌ただしく過ぎて行った夏休みも

本当にあと数日を残すだけ。

 

ひとりの週末はそれなりに満喫して

それなりにリフレッシュはしたものの

体調が悪い!どうやら風邪をひいた模様。

検査したけどコロナじゃないし、

もしかしたらインフル?

去年はコロナもインフルもどちらも経験したけど

今回の風邪が一番風邪らしさを発揮してる。

熱はないけどその他諸症状が満載。

 

咳も出るし鼻詰まりもある。

顔中が詰まっている感覚。

こんな風邪は子どものとき以来かも。

 

こんな調子だったので、

外出は極力しないで家に籠っていた。

映画も観た

「ラ・ミゼラブル」

ヒュージャックマンが好きで。

そしたら今もサウンドトラックを聞いてるくらい

とてもよかった!

 

わたしの感覚はけっこうチョロいので

普通にミュージカル映画の大抵で

エンディングのあとひとりで拍手してる。

ラ・ラ・ランド」も

そのあと数ヶ月サントラ聞いて

「グレイティストショーマン」も同様に。

Queen」も観た後そのまま

何か月もフレディの映像をYoutubeで漁った。

 

本当は舞台も観てみたい。

きっと感動してブラボーって叫ぶ人になる。

大きい音とかテンション上げてくれる曲調とか

いちいちちゃんと反応する。

わたしは自分のこの性分がけっこう気に入ってて

ミーハー気質万歳である!

楽しめたもん勝ちでしょって。

流行りのもは一応全部見る。

鬼滅の刃」も観たし

「君の名は」も。

 

過去作も良いといわれるもの

ほとんど全部観た。

七人の侍」も「東京物語」も

有名どころはとにかく。

洋画ならチャップリンの映画は全部観たし

ゴッドファーザーも、時計仕掛けのオレンジも。

とにかくたくさん映画を観た!

まだスマホのない青春時代。

映画を観れる暇のあった時代。

わたしはこのチョロいわたしの感性に

大いに感謝している!!

素晴らしいものにたくさん出会えたから。

 

そうしていくつも映画を観ていると、

いつのまにかふと手に取った

マイナーな映画がドツボにはまってしまって

人生の大事な一本になっていたりする。

その映画を観た後には、もうその前の人生の価値感じゃ

生きていかれないような

そんな映画に出会うことがある。

同じように音楽もそう。

こうして自分の好きが溜まってくのが

わたしにとっての人生の幸福。

 

多分こうして「好き」を糧にして

生きていくことがわたしのやり方で

それが渇いてしまうと、心が萎れて

ぶにょぶにょになってしまう。

 

つぎはどんな映画を観ようか。

おすすめがあれば是非教えてください。

 

 

 

 

【読書記録】『潮騒』三島由紀夫


三島由紀夫の恋愛をテーマにした小説は初めて読んだ。

それもこんなにも淡い

ティーンエイジの初恋の。

 

なのにどこか既視感があった。

そしてその答えはすぐにわかる!

 

うん、ジブリ

 

青年の純粋で真っすぐなところ!

少女の健康的で無垢で邪気の無さ!

そして二人の結ばれるまでのもどかしさと

純粋なばかりに、周りの心をも巻き込んでゆく

打ち寄せる波!闇!力!

救いようのない程の悪い大人は存在しなくて

それでもやっぱり大人は少しヘンテコで。

基本はいい人たちばかりよ、

そして島全体が、舞台全体が色鮮やかで

生活がしっかりと鼓動している感じ!

これはジブリで映画化されても

全くおかしくない!

耳をすませば』の島ver.で。

 

そう、そんなことを思っていた。

最後の1ページまでは。

いや、その予感は感じていた。

最後が近づくにつれて。

 

以下、ネタバレなので今から読む人は要注意!

読んでみてね!ジブリだから!

 

 

 

男の人の自立心というか、

力を持った時の確信

感覚?というものがわたしには

きっと死ぬまで理解できない。

それはもうずっとDNAに刷り込まれてきている

どうしようもなく確固としてある

男気スイッチみたいな。

きっとそうなんだろうと思う。

女で言うところの

自分の赤子を見たときの母性スイッチのような。

 

こんなこというと性差の話題にナイーブな

現代人たちが群れを成して怒りの声を上げそうだけれど

これは絶対的にある。

母性スイッチと男気スイッチ。

これに翻弄されるのを嫌う現代人が

性差を表立って言及することを嫌うけど

そんな生産性のないこと言っててどうすんのか。

なんでそんなことしてるのかわたしは本気で不思議。

スイッチはある上でどうするのかの議論ならわかるけど

性差をないものとして捉えるのはおかしい。

 

そして、なんで男気スイッチや性差の話かというと

結論、狭い島の世界しか知らなかった純粋な青年が

恋を知り広い海を知り、男気スイッチ入ってしまった

というお話だからです。

 

ここまできてもジブリと言えばジブリだけど

男気の話はなかったことにされるはず。

 

みんなそのスイッチに翻弄されていくのですよ。

みな。大人はみなそのスイッチに翻弄されてる。

男も女も。

その最初の段階にひとりの青年とひとりの少女が

辿り着いたというお話。

 

わたし自身、親になって

(母性スイッチON状態になって)

完全に以前の人格とは

違った人間になってしまったし

それにとても戸惑ったし、

今でも実際しっくりきてない部分は多々ある。

子どもがいると世界に軸が増えるから

世界がこれまでの次元を超えてくる。

これが素敵なこととも捉えられるし

更にややこしいことになったと困惑することにもなる。

これが交互にやってくるというのが現実。

折り合いをつけながらなんとかやっていく。

 

そうじゃないよ!という人も

たくさんいるだろうから、

あくまでこれはわたしのはなし。

そしてスイッチのON・OFFで人間を語れないのは

もちろん大前提での話。

わたし自身の人生でいうとスイッチOFF状態の方が

調子よかったし自分を肯定できてた。

ON状態の今、自分の軸だけじゃ決められないことが増えて

人生ややこしすぎて混乱するばかり。

それでも幸せな瞬間もあるから難しい。

 

わたしには男の人のスイッチの起点がわからなかったけど

この小説を読んで少しだけわかった。

でもきっと本当ではないんだろう、あくまで小説だから。

もしかしたら男の人は何個も

スイッチがあるのかもしれないし

もしかしたらいつでも押すタイミングを

見計らっているのかも知れないし

それもまぁ、ひとそれぞれということですよね。

 

人間、自分で意図していないこと、

言葉で伝えられていなかったこと、

全く予想だにしていなかった出来事や

感情に本当に突然襲われることがある。

その代表格が恋であり、

そして窮地に陥った時である。

わたしもまだまだ知らない感情や

知らない人生の経験をこの先に辿っていくだろう。

 

潮騒

 

打ち寄せる波音に

聞いたことのない

星の声が落ちる

 

何も見えない闇に

浮かんでいたはずの星の留守

 

隙間のないほどに

巡る季節の狭い土の上で

ぼくが生きていることさえも

開け放した

狭い土の上で

 

曲がる坂道の上に

ぼくの探す星があるなら

運ばれたものを

拾い上げることだけを

決められた腕ならば

繋がっているこの縄を

解いてしまうのもこの腕

 

元居た星はどこにいった

ほらまた違う星が

今おおきくぼくを照らしている

 

 

 

 

 

【映画評】三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実


わたしは創作物を愛でるにおいて、

創作者の人格にはさほど興味がない。

音楽もそう。楽曲を好きになっても

作者に興味を持たない。

 

それが自分が年を重ねたせいか、

(年齢を重ねると他者との隔たりが

どこか綻んでくる。他者に興味が出てくる。)

三島由紀夫文学にあまりにもここ短期間で

濃密に触れ合ってきたせいか。

ふと、動いて話をしている彼を見てみたくなった。

単純なる好奇心で見始めたこの映画を

気が付けば前のめりになって観ていた。

 

東京大学法学部の出身の天才作家三島由紀夫

当時現役東大生で全共闘の渦中にいた1,000人の若者。

それがどうも対立の形で相まみえて論争をする。

ここまでの前情報、印象しか持っていなかった。

 

わたしは昭和の末期に生まれて平成に育ったので

右翼や左翼というカテゴライズでさえどこか古典的なもので

身近なものでなかったから、

この手の話題の度にこの「闘争」の由縁がなにか

何を境に左と右になるのか、

何を相手取って戦っていたのか、

そのすべてに正直に関心がなかったし

関ヶ原の戦いと並列で頭の隅に置いていても

まったく問題のない現代に生きていると思っている。

そうして、大半の日本人がそうであると思う。

 

当時を生きていたわたしの父でさえ

単なる混沌とした昭和史の1ページとしてしか

捉えていないし、

本編に出演していた70代になった当時の東大生も

どこかしらそのような印象であった。

そして渦中の三島由紀夫はいない。

彼はひとり戦って死んでいる。

 

まず、当時の東大生と三島由紀夫の言葉が

はっきりいって全然頭に入ってこない。

これはわたしに学識とボキャブラリーのないせい!

解説してくれる何人かがいてくれたので

そこでようやく全体の意図は把握できても

三島由紀夫と、特に芥正彦氏が発言する内容は

十分に哲学に通じて

さらに自分の哲学観のある人間でないと

言葉が宙を舞って永遠に降りてこない状態になる。

あの場で全員の東大生が三島と芥氏の発言を

本当の意味で理解していたのであれば

日本は今また違った世界になっていると思う。

会場でぽかんとしていた学生もいたのではないか。

知の頂き。

それを垣間見れただけでも十分に価値のある時間だった。

それはいつもわたしの尊敬する羨望の的である。

 

当時の学生にはあんなにも

哲学的思想が身についていたのかと驚愕した。

暴力に訴えながら、「他者」「自然」

そして「持続性」そんな言葉がスラスラと出てきて

そして三島はサルトルの「存在と無」を持ち出し

エロティシズムまで論じる。

「世界とエロティシズムだけで繋がっていたかった」

そういった三島にとても共感したのと同時に

それだけでは満足できない、

精神性だけでなく肉体への発現と

行動に駆られていったのは自然な流れだったのだなと納得した。

 

途中、解説の平野氏が三島由紀夫の歩んできた

時代的背景とその心理作用についてとても的確に

お話しされていて一言一句頷いた。

 

学生になくて、三島由紀夫にあったのは

「死への覚悟の経験」だと思う。

三島はもう覚悟をしていた。

徴兵検査まで受けたのだから死にに行くことの

はじめの一歩を踏み出したことがあるのだ。

生きながらえて終戦を迎えても、

その踏み出した一歩は三島にとってはとてつもなく重く、

平野氏の言った通り、1920・30年代に生まれた

日本の男性にとってはそれは「運命」に他ならなかったのだと思う。

そしてその「運命」の歯車を回していたのが

天皇」であり「日本」だったのだから

自分を愛するなり守なり語るなりするのは

即ち国を、天皇を愛し、守り、語るのと同じだったのだ。

わたしはそう理解した。

死に対して振り返らない、臆病を見せない。

これは三島が書く多くの日本男児の姿だ。

 

「エロティシズムだけで繋がっていたい」

そう思わせた世界との関係性が

もしかすると戦前の日本にはあったのか?

わたしには想像もできないけれど。

そうだとすると、戦争で失った多くのものの中に

三島が思う他社とのエロティシズムな関係性というのも

存分に含まれているのかも知れない。

 

対して学生は純粋で、

いつだって若者は自分が世界を変えられると

思い込める生きものであるし、

戦後に生まれているのだから

何もないところから羽ばたいているのにも関わらず

そこにはもう国の体をなしていない

思想も国家としてのプライドもずたずたにされた後の

敗戦国としての日本の姿しかないわけで

若く知的な自我はこれを拒否するのは当然だったと思う。

年長者は戦争で散々な目に合っているので

米国には逆らわない。敗者としての振る舞いがある。

大人しく政治をするのが、三島の言うように

「当面の秩序の維持」に精一杯。

これに反発する健全な若者。

日本が敗者としての振る舞うのを

黙っておけない三島由紀夫

 

三島が「天皇」にこだわって、学生たちがそうでないのは

戦前の日本を知っているかそうでないかで

やはり目指していたところは三島の言う通り

出発点は違うけれど「日本という国のプライド」だったのだろう。

 

この映画のサブタイトルに

50年後の真実とあるが

この論争の1年半後の三島の自決と

東大生たちのその後という意味と

もうひとつわたしの思うのは日本の真実だ。

 

戦前はもちろん、戦後の日本も知らない

日本が負けたことは知っていても

それがもたらすものがどういうことか

これが生まれてずっとこの調子なのだから

そんなことを考えもしない。

三島が訴えた憲法の改正も

政治的な話題全般でさえもありふれた話題ではなく

民衆は諦め、無関心で愛国心など辞書にしかない言葉となっている。

 

ここに三島の言葉を重ねたとき、

わたしたちはどう思うか。

そんなことを伝えているのでは?と思う。

時代背景が違いすぎて、

そして資本主義の暴走を止められない現代では

言葉の力も国家としての存続の意義も

全く別のものになってしまっているので

直接的には何も訴えてはこなくても

わたしは三島由紀夫の純粋さを抱きしめたい。

 

ひとり戦って、そして刃を他者ではなく

己に向けたその思慮深さと終始の美しい思想。

そして残していった素晴らしい文学。

全てを称えたいと思う。

 

素晴らしい日本人がいた。

それを教えてくれるいいドキュメンタリーだった。

 

 

 

 

 

 

 

父子帰省と持病の話と八月二十四日


昨日の夕食後から続いた胃もたれは、

結局朝まで治まることなく

わたしの今日の日を寝不足と怠さで

ひったひたに満たしてくれた。

 

帰宅後も続く怠さ。

それでも今日は夫と息子たちが

所謂「父子帰省」をする日で

駅まで送っていく予定があった。

お盆休みはどこも混むので

いつもこうして時期をずらして帰省する。

自宅は私の実家に近いので、

帰省と言ったら夫の実家へということになる。

 

夫の実家は大阪にあって、こちらよりはよっぽど都会。

家族ごと大阪に住んでいた時期もあって、

息子たちふたりとも大阪の病院で生まれた。

しかし私には都会生活を営む才能というものが全く無かった!

そう、絵を描ける人、描けない人。

泳げる人、泳げない人。

この構図で都会に住める人と住めない人がいて

わたしは圧倒的後者だった。

これはわたしにも誤算だった。

きっと田舎に住める人、住めない人もいるよね、

 

そしてある程度金銭的に余裕でもあれば

どうにか息をする隙間でも作れそうなものの、

若い夫婦に金銭的余裕もなく、

そして夫はとても協力的だったのにも関わらず

長男の神経質な性格とわたしの性格の最悪の相性の

ぶつかり合いで、わたしはどんどんと疲弊していき

(相性はよろしくなくても、息子なので最高に愛おしいから

なお苦しい)

次男出産後に潰瘍性大腸炎という

突飛な病気を発症してしまった。

劇症型で発症して、一時は大腸を摘出する可能性も。

と言われたが、ステロイド治療が効いて寛解へ持ち込めた。

これ以降も二回ほど長期入院している。

それからは年齢を重ねてホルモン分泌が

それほど盛んでなくなったからか、薬があったか、

なにせ難病(原因不明)なものだから何もわからないけど

幸いなことに寛解維持できている。

しかし、もし次回発症することがあったら

もう大腸を捨て去る決意をしている!

 

病気に関してはもうなんとも思っていない。

人生に訪れた一つの転機。

正直に言ってこの経験からわたしは多少なりとも

卑屈になったしネガティブにもなった。

底なしの痛みと絶望と、トイレで蹲る夜を

忘れたくても忘れられない。

何をしても結局あの絶望へ帰るのか?

と疑心暗鬼になってしまう。

今が幸せでも次の朝にはお腹が痛み出すのでは?

そう思って何もかもが億劫になった時期もある。

 

その反面、この経験があるからこそ知れた闇が

わたしの人生に深度を与えたと思う。

これを抱えた人に、わたしは気付ける。

そして寄り添えなくとも存在を理解し

誰のせいでもないよと、もしかしたら肯定すら

言葉にできる距離に近づけるかも知れない。

以前のわたしでは知りえなかった感情に背景。

これは大きい。そして、わたしは生きている。

何も失ってはいないのだ!

 

そうして長期入院、療養とで

子どもを保育園に預ける必要が出てきた。

しかし、大阪では療養目的での保育園入園なんて

絶対に不可能!

という流れで私の実家近くに移り住み、

かれこれもう10年ほどが経った。

 

夫には一番感謝している。

彼はいつだって底なしに優しい。

今日も三人の後ろ姿を見送って一抹の寂しさに襲われたが

その大半は夫の不在に対するものだった。

振り返ると人生の半分近くを一緒に過ごしている。

親と過ごしたよりも長く。

優しい夫に対して、自分はなんてダメな奴なんだと

卑屈になるときもある。

よく夫婦は鏡だというけれどそんなことはない。

うちの鏡は多分壊れているか変な魔法にかけられている。

こんなにも自分勝手な女のどこがいいのか

わたしにはよくわからない。

 

さぁそうして午後八時に駅に送り届けてから

わたしは本屋さんで本を買った。

え、まだ読みかけの本がたくさんあるのに。

そう、今日は三島由紀夫潮騒」を読み始めた。

今日買ったのは

芥川龍之介「河童・ 或阿呆の一生

この間読んだ村上春樹の小説で出てきた

「歯車」という短編を読んでみたくて。

 

日曜日に彼らが帰ってくるまでに

掃除と洗濯と宿題と二学期の準備物のチェックと。

そして読書!

そうして息を荒くしていたら

いつのまにか怠さを忘れていた。

 

おやすみなさい。

今日はゆっくり眠ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【読書記録】三島由紀夫「憂国」と八月二十三日


会社の昼休みの45分間。

自席でお昼ご飯を食べながら

読書をするのが習慣で、

今日はこのところわたしの中で続いている

三島由紀夫シリーズ

「花ざかりの森・憂国」を読了した。

 

これは三島由紀夫氏が選んだ

自身の短篇集で

どれもこれもがギラついてざらざらして、

読むと1日その感触を

首筋にずっと携えているような

そんな物語ばかりだった。

 

わたしが好きなのは「卵」「女方」「百万円煎餅」

そしてやはり「憂国

 

まずは「卵」

これにはとても驚いた!いい意味で、

こんなユーモアのある人なのだな!と。

本人のあとがきにもある通り、『諷刺を超えたノンセンス』

(この言葉選びにも、氏の壮絶なセンスが感じられる!痺れる!)

氏曰く『純粋なばからしさの高み』に達した作品。

そこに知的性が存分に散りばめられているのだから、

もうお洒落の域です。本当に。惚れ直す。何度も。

彼はいったいいくつの顔を持っているのだろう。

何ができないのだろう。

書けないものなんてないんじゃないか?

 

次に「女方

本当にね、そんな芸事の世界なんて、舞台裏なんて

覗いたこともないのに目に浮かんでくる。

主人公の目の動き、そして思考。

すべてがまるで主観で捉えてまさに自分の体験なのでは?

と思わせるほど、本当に巧い。

そしてその感情、わかるよ、って言いたくなる。

不自然がまるでない。

わたしは一度、この主人公だった前世があるのか?

それとも三島由紀夫か?と錯覚するほど。

 

「百万円煎餅」は、心理描写というより

時代背景や生活のあり様、価値観や未来感の相対性を

巧いこと配置して組み立てているなという印象。

これは日記を書く感覚ぐらいで書いたのでは?

そんなことも思うけど、やはりひとつひとつが自然で

何一つ無駄がないのに何一つ欠けていない。

物語として完璧だ。

 

ああ、どうしよう。

他の短編についても全部書いてしまいたくなってきたけど、

憂国」について書かなければ!!!

 

そう、この本のタイトル「憂国」とあるように

まさに主役。ラスボス。それが「憂国

 

これはせこい。と思った。

性と死とを並べるなんて。

しかもこんなにも美しく

そして醜く。

 

美しいふたり、美しい性愛、尊敬、生活

そして美しいはずの死と醜い死に際。

それが妻の動線が多いことで、

夫の静と覚悟とを際立たせて存在を神化させている。

軍人たるもの。日本男児たるもの。

三島由紀夫の中ではきっとこれが

人間の美しいという理想形なのだなと思った。

そして理想の男女であり、愛情の結び方なのだろうとも。

 

この本が発売された昭和43年。

この2年後に三島由紀夫は自決するのだから、

決してなんの由縁もないとは思わない。

憂国」を書いたのはさらにそれ以前だけれど、

自身の呪いであり夢でもあり美しさの体現としたら

三島由紀夫の最後と生き様の両方を表している一篇。

本人も

「三島の良いところ悪いところ全てを濃縮したエキスのような小説」

として「憂国」をあげている。

 

自決のシーンでは、本当に胸が高鳴って

ページを支える左手の親指が爪を立てて本に跡がついてしまった。

美しく心に残る映像ではないし、感動して泣けるような話ではない。

(私個人にとって。)

でもとにかく言葉の美しさに圧倒されることは確か!

まるで言葉の花火大会。

(え?陳腐ですよね、すみません、三島由紀夫にはなれません。)

 

恐ろしい!三島由紀夫

そして嬉しい!まだまだ読んでいない作品がある!

明日からは「潮騒」を読み始める。

 

は!もう日付が変わってしまった。

今日は夕飯に作ったスパゲティがとても美味しすぎて

食べ過ぎて胃もたれして

コンビニ行ってソルマック飲んで落ち着きました。

こんな美しくないわたしの日常も愛でてやりたいと思います。

 

おやすみなさい!