思想荷重

押しつぶされし日々。

恋愛=自分探求?哲学的方程式

 

誰かに猛烈に焦がれるとき。

その人を前にすると心が日常を、非日常と捉えるとき。

血が暴走してる、体の中で。

明らかな心拍の上昇を感じて、顔は赤らんで、手は汗ばむ。

心がどこかに存在するなら、それがどのように、

そして何に触れると起こる現象なのか。

人間の発する電子の不思議な按配だろうか。

化学反応と聞いても驚かない。

 

この頃友人の恋愛話をきいて、自身の過去を顧みる。

そしてふと気が付く。

過去のあの時点、もしかしてあれはわたしの

『誰よりもわたし自身を知りたかった時期』だったのかなと。

思春期など、人生の中で自分を知っていく過程その1である。

そして思春期で得るものこそ、人生の碇石となることは、

心理学的にも明確な事実であると思われる。

 

自分を知ることが、何よりの生きる目的。

自分を知ることが、何よりも有益な人生の攻略法。

生きている意味が今だわからない人間が、

人間たる所以は考え続けることにある。

果たしてそれが、意味のあるなしに関係なく。

そして常に考えの巡るところは主観である自分に対してである。

そう思うと、恋や愛などと呼ばれる気持ちを抱く対象は、

『より鮮明に自分を映しだしてくれる相手』なのではないか…?

 

似すぎていてもいけない。

違いすぎてもいけない。

外見の美しい人に焦がれるのは、自分もそうでありたい、

そうであるだろうという希望的観測と、憧れ。

美しい人の心は美しいに違いないと何故だか人は思い違うけれど、

芸術家の姿がいつも芸術的であるとは限らないように、

醜さと美しさを混同させているのが人間。

優しい人を求めるのは、

自分の優しさの根底を測ってみたいため。

そうして相手の言動に感動すると同時に、

その都度、自分の中に新しいものさしで自分を測定している!

 

人間の主観は時間を捉える。

即ち、経験を装備できる。

そうして様々なものさしを携えて自分を自分で知り、

たまに思い違いもしながら、

また自分に違う気付きを与えてくれる誰かに出会う。

 

ここまで考えて、

これはもう、化学反応以外の何なのだろうと思う。

自分に不足している粒子を持っている誰か、

自分の粒子と相性のいい粒子を持つ誰か。

きっとこんな具合に、目に見えぬ空気中で

粒子の交換が行われているはずである。

だとすると、きっと将来には数学や量子学の分野で

『恋愛』の解明が進むだろう。

 

しかし、そんな必然だけの世界が魅力的か?

といわれると、それはまた別の話。

「わからない」を「わかりたい」人間の本能と

文明の進化と、無限の欲とはどこまで続くか、

まだまだ長生きをして世の行く末を見てみたい。

それとも、わからないロマンをたくさん抱えて、

偶然の重なりに翻弄されながら、苦悩もあり

精一杯もがいてみる人生で終えるのも誇らしいとも思う。

 

わたしは現在、自分のことを自分自身で解明しようとしている。

それは過去に残された文献に重ねて、

あるときはふと偶然に目にする誰かの映像や文章に。

わたしはずっと、わたし自身に焦がれている!

 

うん、こんな小説を書いてみようと思っています。