思想荷重

押しつぶされし日々。

チョコレートケーキと恐竜と八月九日

気まぐれな気圧の爆弾が、

山の起伏を踊るように踏み荒らして

家々の並ぶ麓まで降りてきた。

近頃の車のワイパーは、

雨の具合を感知して不定期に右往左往する。

それが自分の思うタイミングとは

どうしても違う。

自家用車とすらわかり合えない薄暗い午後。

 

今日は息子の誕生日。

チョコレートケーキをご所望の

こちらもきまぐれな10歳のために、

ケーキ屋さんをはしごした。

彼の口から今年はケーキなぞより、

果物がいい!と聞いていたので

事前に予約をしていなかったのに、

昨夜突然「蝋燭を吹き消したい!」と言い出した。

 

目星をつけていた近所のケーキ屋さんは

水曜日定休のため閉まっていて、

その次に近くにあるケーキ屋さんも同様。

駅の近くにあるケーキ屋さんには

ホールケーキがなく、

嘘みたいに遠くにある、

馴染みだけれど会社帰りにはいかないケーキ屋さんへ。

ケーキが並ぶ真っ白なショーケースを眺めると、

すぐにホールのチョコレートケーキが目に入ってきて、

チョコレートが大好きな息子の顔が浮かんでほっとした。

(これ以上遠くにはケーキ屋さんはもうない!!)

プレートを添えてくれるというので

恐竜のプレートを選んだ。

 

10歳だから恐竜はもういいかな、と思いつつ、

今年で最後かな、恐竜は。そんなことを思うと

勝手に少し切なくなる親のせいで

チョコレートの濃い茶色の上に、

水色の恐竜が乗っかった。

 

自宅から随分遠くまで来てしまったから、

信号待ちで停車するたびに、

助手席に置いたケーキの入った箱を

やさしく抑えてやるのに骨が折れた。

もちろん慎重には運転していたけれど、

10歳になった息子の

大事な思い出になるはずのケーキを守ろうとする、

これも親心が所以の変に繊細なエゴなのだけれど。

そう遠くない未来には、そんな小さなエゴを振りかざせないときがくる。

そんなセンチメンタルな親の顔をして、

ハンドルを握り締めながら

意地の悪いワイパーと、ケーキの箱と

忙しく気持ちを振り乱していた。

 

夕食はシチューが食べたいとのことで、

途中、スーパーで買い物をして帰った。

この瞬間は、雨でよかったと思った。

真夏の車内に誕生日ケーキを置いていけないから。

 

夕飯の後少しして、

ケーキを見た息子は大喜びした。

 

恐竜については何も言わないで、

ただこのプレートは自分が食べると主張した。

蝋燭10本を息子が不均等に並べた。

火をつけてやると、危なっかしく自分で食卓まで運んだ。

10年前に誕生した赤ん坊が

橙色の灯りに照らされて、

これは自分のためのケーキだぞと

鼻息荒いままに喜びの息を精一杯はいて、

灰色の煙を10本、ゆらゆらと部屋に揺蕩わせた。

 

シンプルで美味しいケーキだった。

切り入れる角度を指定できる特典を付けくわえてやると

嘘のようにたくさん食べようとするので、

それは制止させてもらった。

(まるまる半分を食べそうな勢いであった。)

 

そんな息子が先日、

部屋に置いてあった私の本を手に取って、

なぜか音読をはじめたときがあった。

ただ手持ち無沙汰だっただけで、

特段なんの意味もない。

本当に偶然、彼が手にしたのは

博士の愛した数式」だった。

 

彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。

そして博士は息子を、ルートと呼んだ。

息子の頭のてっぺんが、

ルート記号のように平らだったからだ。

 

「おお、なかなかこれは、

 賢い心が詰まっていそうだ。」

 

髪がくしゃくしゃになるのも構わず

頭を撫で回しながら、博士は言った。

友達にからかわれるのを嫌がり、

いつも帽子を被っていた息子は、

警戒して首をすくめた。

 

「これを使えば、無限の数字にも、目に見えない数字にも、ちゃんとした身分を与えることができる」

 

小川洋子博士の愛した数式」冒頭

 

 

ここまでを読むと本をぱたんと閉じて、

部屋からぷいっと出て行った。

きっとこれ以上は無理と判断して、

そうそうに興味が失せたのだろう。

 

一方でわたしは息子の、まだ幼い声の読むこの冒頭がとても気に入った。

咄嗟なことで録音などできなかったし、

もう一度読んでと頼むのも違う気がして

ふんわりとした残り香のように、

わたしの心の中に残っているだけでも、

それだけでも十分に素敵な瞬間だった。

この物語がとっても素敵なことも、

わたしに植え付いた感情に

大きく深度を与えてくれた。

 

わたしはこの音読の残り香と

今日の水色の恐竜を生涯きっと忘れない。

 

あぁ、もう日付が変わってしまった。

また雨音が強くなっている。

明日はまっすぐに帰宅しよう。

ワイパーとも少し仲良くなれるといい。

 

おやすみなさい、素敵な夢を見るには、

少し強すぎる雨音のするこちらより。